「退屈だなぁ……」
少年は真っ白い天井を見上げて一人呟いた。
もう何度口にした言葉だろうか、数えるのも馬鹿らしいほどに。
もっとも、少年の立場からすればその言葉は無理もないものかもしれないのだが。
そこは病院で入院―――病気ではなく怪我でベッドに縛り付けられた遊びたい盛りの小学生。
鬱憤も溜まるというものだ。
だいたいクラスメートの見舞いやら何やらが来たりして、更にそれが高まったりする。
だが、その言葉は今日、この日を最後に少年の口から聞かれる事はなくなる。
少年が変わりに口にする言葉は……
「願わくば……安息の日々を……」
それは一通の手紙から始まって
6日目 強制交換日記
そもそも何でこの少年が入院する事になったのか……
一言で言ってしまえば『名誉の負傷』であり、更に言ってしまえば『新たなる修羅場の始まり』なのだが 。
・・・・トントン
少年の病室に控えめなノックが響く。
何かの陰謀なのかどうかは定かではないが少年は個室の病室を割り当てられ悠々自適、少し寂しい入院生活だったりする。
「は〜い」
律儀に答える少年。
まあ、おそらくは看護婦(あえて過去として婦をつけます)だろうとあたりをつけて返事をした。
少年の返事を合図にしたかのようにドアが開いた……ついでに少年の新たなる修羅場のドアも開いた。
「太郎く〜ん、検温の時間ですよ〜」
なぜか看護婦のお姉さんではなく少女がいた。
沢渡ほのか(さわたりほのか)、栗色の長いツヤのある髪に左右に小さなリボンが飾っている。
大きな瞳にかわいらしい顔の造り・・・・成長すれば文句なしの美少女になることは堅いだろう。
ランドセル姿から少女が学校帰りということを語っているのだが、検温とはこれ如何に。
「ほ…ほのか…何言ってるの?」
少年の言葉は当たり前、無理もないというもの。
普段、検温やら何やらという少年の世話は看護婦のお姉さんがやってくれていたのだ。
年上のお姉さんに優しく世話をされていて、それを恥ずかしさ半分嬉しさと照れが半分といったところである。
「今日から私が太郎君の面倒見るねっ!!看護婦のお姉さんもいいって言ってたし」
「い、いや、いいよ。そこまでしてもらうわけには……」
「だめっ!! わたしのせいで太郎君怪我しちゃったんだから・・・それとも・・・迷惑かなぁ?」
うるうると瞳を潤ませた少女……これを【NO】と断わる事が出来る男の子はいまい。
現に少年も―――
「い、いや、迷惑なんて……じゃあわかった。お願いしちゃおうかな?」
―――その姿にうろたえながらも、少年らしい笑みを浮かべて了承する。
ここまでをみれば子供同士の微笑ましいシチュエーション、甘酸っぱい少年時代で済まされるのだが、一つ、違う点があった。
「うん!!任せてっ!! シャワーから下の世話まで何でも言ってね!!」
少女、沢渡ほのか嬢のスイッチは切り替わり済みだった。
少年はここにきて初めて、何かに足を踏み入れてしまったことに気がついた。
はははは……という先程のあどけない笑みとはうってかわって、シニカルな乾いた笑いが少年に貼り付いていた。
何故この少年は怪我して入院しているのか?ほのか嬢の『わたしのせいで』とは?そしてスイッチを切り替えた出来事とは!?
話は2日前まで遡る……いや、始まりは少年が転校してきた時から始まっているのだが。
沢渡ほのかは文句無しの美少女である。
ややファザコン気味なものはあるが、この年代の女子は大抵そうだろう。
そしてこの年代の男子は『気を引きたくて好きな子、かわいい子には意地悪をする』という習性を持っていて、それの標的がほのかになるのは有名税のようなものだった。
もっとも本人からすれば、そんな事をされたら気を引くどころか嫌いになるだけであり、ご多分に漏れずほのかも同年代の男子はあまり好きではなかった。
いわゆる【身近にいる父親という異性が立派過ぎて同年代が霞んで見える】というファザコン特有の現象とも言える。
そこに転校してきたのが我らが主人公・山田太郎少年である。
自分に意地悪をしない太郎を『他の男子とは違う』という目で見始めるほのか。
どこか大人っぽい雰囲気……まぁ疲れているともいうが、それを持つ太郎にほのかの目がいくのは仕方がなかったのかもしれない。
この時点である程度の好感度のようなものは高くなっている。
さて、少年サイドを見てみよう。
北海道に来る前に京都で同年代の少女―――若菜に監禁された少年は軽度の女性不信、女性恐怖症に陥っていた。
女子が怖い―――まあ、そんな理由で女子との過度の接触を避けていた。
それはほのかに対しても例外ではない。
冷たくするわけでなく、あまり仲良くならないようにというある程度の距離を保った関係を女子と築いていた少年。
『僕と仲が良くなった女の子は何かが変わる』という事実に幼いながらも気がつき始めたのが土台にあるのだが、今回は……今回も少年の行動は裏目にでたのかもしれない―――いや、裏目に出た。
そして運命の日……遠足で近所の牧場の見学に来た少年達。
体験乗馬―――希望者は小型の馬に乗せてもらえるというイベントがあり、動物好きなほのかはもちろん希望して乗せてもらうことになった。
馬に乗ったほのかを囲むように見ている少年を含めたクラスメート。
そこでアクシデントは起こった。
ヒヒィィィィン!!!
「きゃぁ!!」
いきなりほのかの乗った馬が暴れだしたのである。
暴れだした馬の動きに女子のほのかの腕力で耐えることは難しい。
当然のように馬から振り落とされるほのか。
このまま地面に叩きつけられれば怪我は免れまい、いや、打ち所が悪ければ最悪の事態さえ考えられる。
その時、奇跡……悲劇が起こった。
振り落とされ、飛ばされたほのかの着地点に少年が立っていた。運悪く。
少年からすれば暴れ馬から逃げる前にほのかが飛んできた状態だ。というよりあまりのことに逃げるのを忘れていたりする。
ドシン!!
「ぐぉ!?」「きゃあ!!!」
避ける間も無くほのかを受け止めた少年は右膝にはしる激痛に顔を歪ませ、そのまま気を失った。
「こりゃあ折れてるな……」
牧場のおじさんの声がやけに暢気に聞こえた。
その時のほのかサイド……
「きゃあぁぁ!!」「ぐぉ!?」
ドシン!!
『あれ?痛くない……何か下にやわらかいものが……えっ? えっ!? 山田太郎君!?
わたしを庇ってくれたんだ……やっぱり他の男の子とは違うんだ……
まるで王子様みたい……』
……キュン
『えっ? なにこれ……ときめき? 恋? 愛?』
―――――カチリ
あ〜あ……スイッチ切り替わっちゃった。
少年の今まで女性不信からくる無関心の装いによる、ほのかの友好度の高まりが親愛、恋愛度に変わるには十分すぎるイベントだった。
ちなみにほのか、この間気を失っている少年にのしかかり中。
はやくどいてやれという空気にはなっているのだが、いかんせんスイッチの切り替わっている少女には通用しない。
『多分……いや、絶対太郎君もわたしの事が好きなんだわ。
だって他の男の子は意地悪ばかりしてきたのに【太郎君だけ】わたしに優しかったもの……それに今も身を呈して……』
少年の行動が裏目に出た瞬間だった。
◆◇◆◇
「ま、待ってよ!! トイレぐらい自分で行けるって!!」
そう叫びつつズボンを必死の形相で押さえている少年。
「何を恥ずかしがってるの?大丈夫!!誰にでも初めてはあるの!! 要はそれが早いか遅いかの違いだけ!! さあ。」
笑顔で尿瓶を右手に持ち、左手で少年のズボンを引きずり下ろそうとしているほのか嬢。
同級生の女子にズボンを下ろされて下の世話をされる………はたして誰にでもある初めてなのだろうか?
恍惚とした表情をした少女……将来の才覚は十分だろう。
『なぜか』防音完備の個室病室であるため助けは期待できまい。
そして骨折した右足を固定して吊り下げてあるため、身動きも満足にとれない。
目の前には瞳に【真剣】と書いて【ガチ】と読ませるものを張り付かせた少女。
新しいトラウマ……『病院』『尿瓶』が追加される事も時間の問題だろう。
間違いない。
更に重度な女性不信、恐怖症になることも時間の問題だろう。
間違いない。
神は死んだ……
その日の夕方に虚ろな瞳で少年がそう呟いているところを、少年担当の看護婦が目撃している。
看護婦のお姉さんが声をかけるのを躊躇わせるほどの悲しい背中をしていた少年。
だがこれで終わりではなかった。
しばらくして少年が退院しクラスに戻ったところ、クラス中……いや、学年、学校中に沢渡ほのかと山田太郎は全てを見せ合う仲で結婚を誓い合っているという噂が広まっていて、確かに自分は何かを踏んでしまったということを深く認識させる事になった。
沢渡ほのかの潜在スキル『情報操作』。
自分に有利な情報を生活している領域(テリトリー)に流し、相手を追い詰める。
そして交換日記(子供は何人欲しい?神前?教会?などということが書かれている)を強要された少年は無記入で返す事しか出来なかったのだが、痺れを切らしたほのかの、
「一方通行じゃ寂しいから、あなたにも何か書いてほしいな……」
との言葉に『寂しいならやめてください・・・』などとはもちろん言えるわけはなく、『僕は平穏に暮らしたい』ということを何かで滲んだ文字で書いていた。