「うぅぅぅ……ふぐぅぅぅぅ……」

 横島は己の眼から流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。
 
 








 

隠者 第5話 涙




 



 濃い霧雨が降り注ぐ、闇に包まれた暗き森。
 その暗き森に不釣合いなコンクリートの建物があった。

 その建物は周囲の風景とのアンバランスさからか不気味さを強め、周囲の森も同様に静けさを増していた。
 獣の鳴き声も鳥の羽音も虫の鳴き声すらも消えており、「死の森」という名前がつきそうなほどに。
 ならば建物は「死の建物」というべきか。


 その建物の入口―――扉の前に一人の男がたどり着いていた。
 
 巨大な扉だった。いかにも堅固、鉄壁という言葉を思いつくほどに頑丈そうな扉。
 鋼鉄製であろう分厚い鉄板を二枚、継ぎ目無く並べて作られたような無骨な扉は外からの侵入はもちろんの事、内からの逃走も許さないという建物の所有者の感情を表しているようにも見える。


 男―――横島は扉を見上げた。自分の身長の2倍以上は高さがあるだろう扉を。



「ようやくスタートラインか……ったく」

 予定時刻を20分以上もオーバーしている。安物の腕時計を見ながらため息を一つ。オカルトGメンの依頼なのだから時計ぐらい―――ましてや装備ぐらい支給してくれてもいいのにと思う。今の格好は普段着――デニムの上下に安物のスニーカーである。
 もっとも今回の依頼は極秘というぐらいだから装備品を支給するわけにもいかないということは理解してはいるのだが。


 そして文珠に『開』と込め右手に握り締め霊力を注ぐ――――


ゴゴゴゴゴゴ………


――――低い駆動音と何かを引きずり削る音が響き目の前の扉が開かれる。


 想像した通りの薄暗い通路が目の前に続いていた。


「ふぅ……」
 
 一息つき握られた文珠を腰のホルダーにしまう。
 このホルダーは自分の手作りである。

 そして意識化にある文珠の残数を数える。

『残りは……4……5個か』

 文字の込められていない文珠の数。

 目的地に到着した時点で残り五つ。
 まだ潜入と捕縛というものが残っている事を考えると多からず少なからずといったところだが……

「まぁ……何とかなるか」

 そういう結論を出した。
 それは驕りや強がりから出た言葉ではなく自然のもの。
 気楽な言い方なのだが『何とかするか』という意味も込められている。
 
 それを証拠に飄々とした雰囲気は揺らいではいなかった。


『こいつも使いようだしなぁ……』

『隠』という文字が込められた文珠を玩びながら自分の能力を考える。


 




――――お前の文珠は万能か?



 何故使用した文珠が消滅しないのか?それは妙神山での猿神との修行の成果と言えるものだった。
 そして横島が自分の心に整理を――――前に進むことを決めたのも妙神山だった。





【妙神山・修行場】

 丸太のような棍棒を振り回す巨大な猿―――ハヌマン。それに相対するのは道着を着ている男―――横島。 
 
 満身創痍という言葉が当てはまる横島に迫るハヌマンの棍。かわす力すら残っていない横島に出来ることは前面に霊盾―――サイキックソーサーを展開しダメージと衝撃を軽減することだけ。
 けれどハヌマンの殺さぬように手加減された棍の一撃は、霊盾を脆いガラスを割るように打ち破り、横島をゴミのように弾き飛ばした。

 その勢いで……ドズンという音を立てて結界の壁に叩きつけられた横島は動かない、動けないのか。


「終わりか?」

 どこか冷たい響きの老人――ハヌマンの声。
 もう何度目かわからない問いかけ。立て、とも立つな、とも含まれていない言葉は冷たい。
 強いて言うならばつまらなさそうな目をしていた。


「………まだだ」
 
 横島は痛みを堪えながら苦しげに声を出す。
 これも何度目かわからない答え。歯を食いしばり顔を歪ませても冷たい。
 ずるずると壁を支えにして立ち上がり、一歩踏み出す。それはまだやれるというハヌマンへの意思表示。

 まだやれると意思表示した横島に対して、したからこそ容赦なく攻撃が加えられる。

 そしてまた吹き飛ばされる。


 それは2週間ほど前から繰り返されている横島の修行の……苦行の風景だった。

 そして、それを修行場の入口から見つめる小竜姫の姿があった。


 2週間前にふらっと「修行をつけてください」と妙神山に訪れたのが横島だった。

 『暇だったんで……』そう何でもないように口にする言葉は何も込められていないモノで、以前からの――普段の横島を知る小竜姫にとって『らしくない』と感じさせる言葉だった。
 しかし以前の美智恵に対する激昂を知っている事がその横島の態度と言葉を納得させていた。

 小竜姫は最初は横島の修行を許可しなかった。頑なに。
 横島に対して危うさを感じたこともあるが以前に横島からぶつけられた言葉―――『神族は黙ってろ!!』―――拒絶の言葉が楔となり心が横島と向き合うことを躊躇っていた。
 竜神が一人の人間の男に向き合うのを恐れる―――こんな滑稽な事はないと自嘲しながらも。
 
 
 しかし「いいじゃろ……着替えて修行場に行っておけ」というハヌマンの一声で修行が行われることになった。


 それからずっと向かっては倒され、立ち上がっては吹き飛ばされ――――苦行が続いていた。




「横島さん!!」

 ついに我慢できずに小竜姫が止めに入る。
 横島はまだ立ち上がろうと動き出していた。
 肩を貸し立ち上がらせようとするが、それを振りほどくようしてにまたハヌマンに向かおうとする。

「離してください……小竜姫様」

 息も絶え絶えの小さい声だがそれに込められた意思は健在だった―――――痛みを得ようとする。
 同様に前に進めようとする足も健在だった。

「っ……何を言っているんですか!? こんなものは修行ではありません!」

 その意思に圧されながらも横島を止める。
 だが決して『今のあなたの姿をルシオラさんも望んでいない』とは言わない……言えない。
 その言葉を口にする資格をもっていなかったから、そしてあの時の拒絶の言葉がそれを止める。
 現に横島の目を正面から見据える事は出来ない。

「これぐらいしか残ってないんすよ……俺に出来ることは」

 泣き笑い―――それを、痛みを慈しむかのような表情は弱い。だから小竜姫は初めて横島を正面から見据える事ができた。けれど心が締め付けられる。
 
「出来ることって……」

 何もしていない――正直思う。自分も同様に。

「あいつの痛みを………苦しみを少しでも味あわねえと俺がなんで生きているのかも分からねえし……あいつが今どこにいるのかも分からないんですよ!!」

 自分の服の胸の部分を握り締めながら横島は叫んでいた。搾り出すように。
 失ったことに対する悲しみではない、あの時の選択の後悔でもない。
 涙を出さずに泣いているように見えた。涙を無くしてしまったように見えた。




 横島は悲しむことをやめていた―――――資格がなかったから。
 ルシオラにトドメを……彼女の復活の可能性を断ったのは自分で、それを決めたのも自分だったから。

 横島は後悔することをやめていた―――――時は戻らないから。
 きっかけは……ルシオラをかばった事は間違ってると思わないから。
 あの時の約束を果たせた事を誇ろうと思った。


 ただ、自分がルシオラを糧にして生きている証―――痛みを感じることで彼女を近くに感じられる……そんな気がした。


 自棄になったわけでも沈んだわけでもない。
 ただ純粋なまでに彼女の証―――想いを求めた。
 何も別れを告げていない、彼女の心が霞んで消えていく感触だけが残っている己の体の中に、まだルシオラの心が残っているのではないか?心の中でだけでも微笑んでくれるのではないかと。

 純粋で歪んでいて……愚直な感情と想い。

 時が経てば、年を取ればそれは淡く儚い思い出となる。普通なら。

 忘れるには色濃く残る大恋愛だった。想いだけが色濃く残った。
 
 それを振り切るには横島は幼すぎた。優しすぎた。

 


ドサッ……


「横島さん!!」

 己が心情を振り絞り力尽きたのか、横島はその場に崩れ落ちた。
 ここまでやって彼の1日の修行は終わる。日に日に立っていられる時間が長くなっている。
 
 介抱するのは小竜姫の役目で寝所まで運ぶ。

「老師……何故横島さんの修行の許可をだしたのですか!? こうなることは老師には分かっていたはずです!」

 普段なら何も言わずに横島を担ぎ上げる小竜姫は堪らずハヌマンを問い詰めていた。

「ここでやらせんかったら小僧は他のところでやるだけじゃわい。それこそ死ぬまでのう」

 小竜姫の怒気を受け流すようにさらりと簡単に答える。
 あまりのあっさりさに小竜姫は言葉をなくす。

「しかし、このままでは……」

「わかっておる。まあ……このままにしておくわけにもいくまい。運んでやれ」
 
 小竜姫の追求を打ち切りキセルに火を点ける。

 横島を背負い修行場を出る小竜姫を見やり煙を吐き出す。

『全く……不器用な小僧じゃわい。』

 心配しているようには見えないのは年の功なのか。








ズキン……

「ぐ……ここは…寝所か」

 全身にはしる痛みと共に目が覚める。
 周囲に目をやり今の状況を確かめると

『着替えさせられている……一体誰が』

 ボロボロの武道着を身に付けていたはずが、和服……浴衣のようなものを着ていた。
 普段は武道着のまま布団の上に寝かされているのだが。

『まさか小竜姫さまか?』
 
 一瞬、真っ赤な顔をして自分の武道着を脱がしている小竜姫を想像するが。

『んなわけないな……』
 
 すぐに考えを改める。
 というよりも彼女とはここに来てほとんど話をしていない。 


『小竜姫さまか……』


「くそったれが……」
 
 それは自分に対する言葉。
 感情のままに言葉をぶつけたこと……八つ当たり。
 己の情けなさに自分で自分を絞め殺したくなる。

 美智恵にしても小竜姫にしてもあの時は全員が最善を尽くした。
 美智恵は娘のために命を懸けて時を越えた。
 娘を犠牲にしても世界を救おうとした。

『何が正しくて何が間違っているのか……それがわかるのは全てが終わってから』

 全てが終わって世界は救われた。
 それはおそらく正しかったのだろう。
 それぞれがその時の最善の行動をとった結果に正誤を問うことは出来ないのだが。
 それは自分とて例外ではない。


 だが今の自分の姿をルシオラが望んでいないことはわかっていた。
 周りに多大な迷惑をかけている事も。
 自分が彼女にしがみつき、足を止めていることも。


 ふと違和感を感じ周りを見る。周囲に灯りのもとはないからこの時間は真っ暗のはずである。
 だがぼんやりと障子越しに柔らかな光が当たっていた。

「―――やけに明るいな」

 体を引きずりながら外に出る。

「満月か……」

 自然と口から零れ落ちた。

 柔らかな光を放つ満月が夜空に映え、周囲を幻想的なものに染めていた。
 その柔らかな光に見覚えがあって……胸が痛む。思えば満月を落ち着いて見たのはいつ以来だろうか。


「見事なもんじゃな……」

 どれくらい見蕩れていたのか、背後からの声に我に返る。

「ハヌマンか……」

 いつからそこにいたのかキセルを吹かしながらのハヌマンが胡座をかいていた。


「「・・・・・・・・・・」」


 二人とも何も言葉を発さず月に見入っていた。



そして唐突に、

「……ここまでか?」

 ハヌマンが口を開いた。
 それは主語もなく短いものだったが穏やかなものを含んでいた。
 昼間と似た問いかけ。

「………俺は」

 迷い、躊躇、戸惑い。

「……足を止めるのか?」

 再度の問いかけ。
 それは確認のようであったが……横島の心中をついたもの。

「……わからねえんだ。……進めねえんだよ」

 静かな答え……素直な、正直な気持ちだった。
 初めて他人に弱さをさらけ出した。
 素直にさらけ出したのが初めてだっただけで周囲は感じ取っているだろうが。

「魔族にとって……いや、人でないものにとって死は永遠の別れではない」

 淡々とハヌマンは告げる。わかりきったことを。
 視線は横島ではなく月に向けていたが……心に響く何かがあった。
 ハヌマン自身が悠久の時の中で出会いと別れを繰り返したからかもしれない。


「…………」

 それは彼女にも言われた言葉。

「強く……強くなっておけ。横島」


「え?・・・・・・」

 初めて横島はハヌマンに顔を向けた。
 夜空を見上げるハヌマンの顔は何かを思い出しているように見える。


「いつか必ず……再び出会う時がくる。その時の為に……強く、前へ進め」
 
 静かな言葉だった。

 『再会』とは言わなかった。
 同じルシオラという魔族と会えるとは限らない……会えないかもしれない。
 だがいつか必ず目の前の男は、戦う理由―――己が守るものを見つけるはず。
 己の中に再び守るものができた時の為に……守るものと再び出会った時の為に、横島に前へ進んで欲しかった――――横島が前に進めるものと信じていた。
 


『再び出会う時が来る』

 横島にとって初めて言われた言葉だった。
 それは無責任な言葉だったかもしれない。
 何の確証も無いものかもしれない。
 周囲の者は『出会う可能性がある』としか言えなかった。
 事件に関わり横島の傷を知るならなおさら口に出せる事ではなかった。
 だがハヌマンは神族としての負い目がありながらそれを告げた。
 それは横島を動かした。




「うぅぅぅ……ふぐぅぅぅぅ……」

 横島は己の眼から流れ落ちる涙を止めることが出来なかった。

 悲しいわけでも悔しいわけでもない。

 ただあの日以来押し殺していた感情が溢れ出した……それだけだった。

 溢れた感情が単純に涙となって零れ落ちた……それだけのことだった。


 穏やかな月明かりが男を癒すように包み込んでいた。

 涙が乾いたら又、歩き出す男のために。

 前へ進もうとする男のために。





 その次の日から本当の修行が始まった。






「お前の文珠は万能か?」

 それは修行中の事だった。

「万能じゃないさ。色々欠点もあるし第一俺の霊力をジャミングされたら役にたたねえしな」

 製作者本人にとって考えるまでも無い事だった。

 一度発動させたら消滅する。
 文字を込めなければ発動しない。
 具体的に的確な文字を込めなければ思い通りの効果が出ない。
 消費霊力が多い。

 なんでもない事のようだが実際の戦闘・除霊に置き換えると致命的とも言える欠点もある。
 実力の拮抗している相手と戦う時、文珠を作り出し、込める文字を考え、文字を込め、発動させるという四挙動のタイムラグが戦局を左右することも考えられる。
 それを補って余りあるほどの効果と応用性があるのは事実であるが。


「お前の考えている文珠の欠点じゃが……いくつかクリアできるものもあるじゃろ」

 何でもないことのように言ってくる。

「何!?」

 横島の頭には文珠の作成時間を短縮するぐらいしか思いつかないのだが……

「とりあえず文珠を貸してみろ」

 文珠を作り出しハヌマンに渡す。

 受け取ったハヌマンはその文珠に『棍』と込める――――

――――文珠の両端から1メートルほどの長さまで霊気が噴出し具現化している。
 
 だが見た感じでは変わったことをしているようには見えない。

「何やってるんだ?」
 
 解からずに訊く。

「解らぬか? ほれ」

 質問には答えずに文珠を返す……返す?

「使ったのに消えてない!?」

 横島が受け取った文珠は『棍』と浮かんでいる以外は変わったところは無かった。

「文珠を通してワシ自身の霊力を放出しただけじゃ」

「どういうことだ?」

「そいつの特性を思い出してみろ」

「力の方向を100%コントロールする――――そうか!!」

「気づいたようじゃな……その特性は注がれる霊力も例外ではあるまい。」

 ニヤリとした笑みを浮かべ説明する。

 文珠を発動させるのではなく文珠を通して霊力を放出・展開する。
 文珠を発動させるより瞬間的な威力や効果は劣るが持続性は高い。
 文珠の欠点を狙い戦闘を仕掛けてくる相手の虚を突くことは可能でコストパフォーマンスも勝る。
 何より文珠の長所・・・応用性が向上する。

問題は……

「まあ一度文字を込め、霊力を通した文珠の文字を変えることは出来んようじゃがな」

 霊力を注ぐ事で力の方向が固定されるからである。

「一長一短だな…」

 玩びながら答える。

「万能な能力なぞ存在せんわい。要は使い様ということじゃ……何事もな。
それに『癒』と込めればヒーリングの能力が無くても使う事も出来るじゃろうし、ヒーリングを使える者がそれを使えばさらに効果を増すじゃろう?」

「なるほどな……」

「まあそういう使い方は周りには秘密にしておけ」

 真面目な声での忠告。

「何でだ?別に減るもんじゃないだろ」

「手の内をむざむざ曝す必要もあるまい。それに美神令子にばれてみろ?その固定化された文珠を売りに出されるぞ……」

「あ、ありえる……」
 
 汗を一筋掻きながら同意する。

「まあそいつは冗談としても、切り札というのは隠してこそのものじゃ。とっておくんじゃな」

「あ、ああ……わかった。」
 
 冗談では済まされないことを認識しつつも・・・・









【建物入り口】

「行くか……」

 横島は気だるげに呟き足を進める。

 薄暗い通路には弱い妖気が漂っている。

『やばくなったら……かぁ』

先ほどの西条との会話を思い出す。

「逃げてえなぁ……」
弱気な呟きではないのだが嫌な予感がする。

そういいながらも駆ける横島の姿は薄暗闇に消えていった。




 

 

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