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己の気が付かぬうちにソレは迫る。
日々の日常、安息の日々、束の間の平和。
今いる場所が緩やかであればあるほどに、ソレには気づかない。
気が付いたときには遅いのだ。
もはや逃れる事は叶わない。
人はソレを【鎖】と呼ぶ。
それは一通の手紙から始まって……
IF ほのかEND
卒業式を間近に控えたある日の午後、不幸の少年こと山田太郎は下校途中に妙な視線を感じていた。
いや、下校途中に限らずここ最近は校内や近所でも妙な視線、そして自分を標的としたヒソヒソ話が聞こえていたりもしたのだが。
それを問おうとすると皆揃って視線をずらしたり慌てて口を閉ざすのである。
俺ってもしかしたら嫌われているのか?などと考えてみたりもしたが太郎は表面的には人畜無害で平凡を絵に描いたような青年である。目立たない印象はあっても嫌われることはないだろう。ましてや卒業前である。もしかしたら二度と顔を会わせなくなる人間に対してそこまで無意味な真似はしない。
とはいえ、妙な視線と噂話というのも気分のいいものではあるまい。何となく居心地の悪い何かを……そして嫌な予感を感じながら太郎は家路を急いだ。
次の日の事。
「よう山田っ! お前結婚するんだってな?」
ぶふぇっ!!
学食での昼食途中に鈴木という友人から掛けられた言葉に対して太郎は食べていたカレーを吐く事で返答した。ちょっと待て!! と。
「ゲホっ……いきなり何を言い出すんだお前は!」
「何って。結婚するんだろ? お前」
「だから何の話だ。大体どっからそんなデマを………」
まるでこちらのほうがおかしいような鈴木の物言いに対して、逆に落ち着きを取り戻した太郎はコップの水を飲みつつカレーの残りを口にする。
「どこって、学校中その話題で持ちきりだぜ? 山田が結婚するっていう」
ぶふぇっ!!
落ち着いたところでの不意打ちに対して太郎は最初と同様に水とカレーを吐く事で返答した。ふざけるな!! と。
「いいリアクションしてんなぁ、山田」
「ゴホッ……ゴホッ…………はぁ~、はぁ~………」
「で、誰と結婚するんだ? お前うちの学校に付き合ってる奴いないだろ? だからお前が誰と結婚するのかってのが学校中の話題を独占しててなぁ。」
「お、俺が結婚するというのはその噂の中では決定してるのか? 」
危険予知スキル【嫌な予感】のアンテナに今の状況がビンビン反応しているのを感じつつも、焦る気持ちを抑えて冷静に話を聞く太郎。
確か過去にも似たような状況に陥った事がなかっただろうか………自分が気が付かないうちに泥沼に首まで浸かりきっているかのような感覚に太郎は覚えがあった。
真綿で首を絞められているような、緩やかで穏やかな危機感という矛盾したモノに対する記憶。
何時の事だったろのかすら覚えていない記憶を呼び起こすのに恐怖という躊躇いを覚える太郎。
「あん? 決定も何も事実じゃないのか? 北海道の方の大学に入学したらそのまま結婚するって話だろ?」
「んなもんデマだデマ!! ったく、ここ最近の奇妙な視線はそのせいかよ………………………待て、何だその北海道の方の大学ってのは」
根も葉もない出鱈目に対して憤慨しつつも、ここ最近の自分に対する奇妙な視線とヒソヒソ話の疑問が解け、納得しようとした矢先に聞き捨てならないキーワード。
同時に今自分が置かれている状況を認識したくないのに理解してしまうような、嫌な感覚に囚われる。
「何だって、自分が行く大学だろうが。大丈夫かお前………」
「お前と俺は同じ地元の大学だろう!? 一緒に試験も受けに行っただろが!」
嫌な汗が背中を流れていく。
自分が追い詰められていることに気が付き始めた故の汗。
例えて言うならば『あなたは1ヶ月前に食べたラーメンに入っていた毒で二日後に死にます』と、自分の気づかぬうちに食べた毒の致死猶予期限を聞かされたようなものだろうか。手遅れの状態で。
「え? そうだったっけ? 覚えてないなぁ……」
「―――――ちっ!!」
舌打ちを鳴らし、食べかけのカレーライスを持って急ぎ席を立つ太郎。やや乱暴に食器を返却口の中に放り込み、そのまま走り出す。
太郎の顔色は悪い。青白いものに変わっている。
逃げなければ。
よく分からないが逃げなければ。
自分の【嫌な予感】に従って逃げなければ。
だが、【嫌な予感】で察知しても大抵どうにもならないことが多い。
「お~~い、山田~~~!!」
一目散に下駄箱に向かって廊下を駆けていた太郎の背中に呼ぶ声が響いた。
その声が友人だったなら走り去るところだが、自分のクラスの担任だとそうもいかない。
急ブレーキを掛け、振り向く。
「なんですか先生………」
「どうしたって……ん? どうした山田、顔色悪いぞ?」
「……何でもありません。それより何か用ですか?」
まさか本気で身の危険を感じているとは言えまい。それに、もしかしたら根も葉もない出鱈目な噂がこの教師にも伝わっているかもしれない。
これ以上噂を広めるわけにもいかないし、何より聞きたくない。
余計な話題に触れずに用件だけを聞いて離脱しようと考えていた太郎に追い討ちがかかる。
「全く………お前もようやく学生結婚に対する不安を感じてきたか。まあ何にするにしても不安は付き物だ。それに決めたのはおまえ自身だからな。頑張んなきゃな」
諭すような口調で、優しく太郎の肩を叩く担任。
太郎の顔色の悪さを少しづつ近づいてくるという結婚に対する不安の表れだと考えているようだ。
「しかしお前もよく決心したもんだな。世間は晩婚の傾向があるっていうが、まさか自分の生徒が学生結婚なんてなぁ……」
と、どこか遠くに目をやり、何かを懐かしむかのような仕草は、教師生活15年を越える経験があるからなのだろう。
真摯に自分の生徒を心配し、それを見守ろうとしている。指導能力のない教師、指導意欲のない教師が増えていると近頃言われているが、この教師にはそれは当てはまらないようだ。
だがしかし、それが目の前の少年の、太郎にとってプラスに働くか否かはまったくの別問題だった。
現に太郎の顔色は土気色に変わり始めている。
それに気が付かずに自分の世界に入り込み助言をする教師。
太郎は気づき始めていた。
今の状況は幼少時のそれと似通っている点が多すぎた。
『気づかぬうちに流されていた噂』
あいつと○○って病院で全てを見せ合ったらしいぜ……
『クラスどころか学校中を影響下におく噂』
山田君は彼女の○○○ちゃんの隣の席でいいでしょ?
『教師すら飲み込む噂』
太郎君、不順異性交遊という言葉を知っているかな?
『それは親すらも巻き込んだ』
うう……うちの太郎がこの年で女の敵に………
スキル【情報操作】
周囲の情報を操る事が出来る。
熟練すれば相手にとって【捏造】【扇動】という洒落にならない状況に陥れることも可能。
土気色の太郎思考の中で全てが一本の線に繋がった。
穴だらけだった全てのピースが埋まり、一つの絵が浮かび上がった。
そして太郎は悟った。
『嵌められた………………』 と。
太郎には逃げることしか出来なかった。
スキル【現実逃避】
目の前の状況から目を背け、自分の心の平静を保とうとする行為。
ただ目を背けているだけなのでそれ自体の何の解決にもならない。
目の前の状況から目を逸らして逃げる事しか出来なかった。
「でだ、結婚式は代表で俺と校長が出席する事になったからな。ほれ、返信用の手紙だったが山田に渡しても構わないだろ?」
と、語りを終えた担任は一通の手紙を太郎の手に握らせた。
「え………先生、コレは?」
触るのも見るのも怖いと言いたげに親指と人差し指で摘み、顔を背けながらの太郎。
「ん? あぁ、だからお前から届いた結婚式の招待状だよ。これ渡す為に呼び止めたんだ。もう行っていいぞ」
「………………………………」
「お前も独身生活が後僅かだからってあんまり羽目外しすぎるなよ? なんてな! じゃあな山田!」
はっはっはっと機嫌良く笑いながら去っていく担任教師。
残されたのは一通の手紙。
それには長々と難しい言葉が書かれていたが、噛み砕いて簡単にすると
【平成18年5月5日に
沢渡 太郎(旧姓 山田)と沢渡 ほのかは結婚式を挙げることになりました】
ということがワープロで打たれていた。
添えられている式場の案内図に写っているチャペルがやけに輝いている。
その場で立ち尽くしている太郎を見かけた鈴木という太郎の友人は、太郎が―――
「………神は死んだ」
――――と呟いたのを聞いている。
同様の手紙が、全国に散らばる太郎を狙う少女達の下に届き、それぞれに応じた行動をとろうとしているのは別の話。
ある者はその日のうちに北へ旅立ち、ある者は東の地へ太郎を確保する為に動き、またある者は虎視眈々と機を狙っている。
少年の一通の手紙を巡る物語は幕を閉じた。
同時に一通の手紙を引き金にして始まる物語があった。
物語は終わらない。